Soul Cinema

『シネマは時代を映す鏡だ 今ここに その魂を感じ取れ』

旧作を中心に、映画のレビューを綴ったブログです。
皆様のコメントお気軽にお寄せ下さい。お待ちしております。(2019.3.7開設)

新設大学のテニス部を舞台にした宮本輝の小説「青が散る」は、登場人物たちと年齢がほぼ同じだったティーンエイジャーの私に感銘を与え、以降しばらくはその著作をよく読んでいたのだが、私の関心が海外の翻訳物へと移りだした頃から次第に遠ざかっていき、最近は全く手にとることがなくなっていた。

そんな矢先、映画関連のブログで交流のある方と宮本輝原作の「泥の河」についてのコメントをやり取りする中で、短編集「幻の光」の話になり、まだ未読だった私は早速文庫本を取り寄せるに至り、そしてその表題作を是枝監督が映像化した本作についてもぜひ観てみようと思いたった。

クローズアップが極端に少ない映画である。少ないと言うより、クローズアップされた場面そのものが全く無かったかもしれない。カメラを固定し、平面的に引いて捉えたカットを積み重ねた印象だ。それは祖母の失踪、夫の自死を経験した主人公の、人生に対する複雑な思い、そして浮遊感を表しているのだろう。

喪失と再生がこの短編小説の、短編集全体の、テーマだとするならば、映画は非常に丁寧に作られてはいるが、残念ながら原作の持つ深みまでは表現しきれてはいない。それはこれだけに限った話ではなく、言葉を具象化すること自体が相当にハードルの高いものなのだ。

是枝監督がこのデビュー作以降、コミック原作の「海街ダイアリー」を除き、自身のオリジナル脚本で映画に臨んでいる背景には、もしかすると小説を映画化することに対しての抵抗感、違和感をずっと持ち続けていることが理由として存在するのかもしれない。

小説で最も私の記憶に残っているシーンがある。若くして夫を亡くした主人公は隣家のおばちゃんから縁談を持ちかけられて、大阪から能登へ嫁ぐのだが、その引越し当日にバッタリ会った近所に住む在日の女性が、駅までわざわざ送ってくれて、しかも普段無愛想だった彼女が別れ間際にニッコリと笑ってみせるという場面。人の温もりを感じさせるとても素敵なエピソードだと思うが、この部分が映画ではまるまる割愛されてしまったのが惜しまれてならない。

「幻の光」 1995年 110分 監督:是枝裕和、脚色:荻田芳久、撮影:中堀正夫、音楽:チェン・ミンジャン、出演:江角マキコ、浅野忠信、内藤剛志、柄本明、木内みどり、赤井英和

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タルコフスキーの作品を観るのは今回が初めてだ。ただ何となくタルコフスキーは難解、そう考えていてこれまで借りることがなかったのだが、パンクの女王パティ・スミスのアルバム「Banga」(2012年)に収録された「Tarkovsky:The second stop is Jupiter」という曲が「僕の村は戦場だった」へのアンサー・ソングだと最近になって知り、映画そのものをぜひとも観てみたくなったのである。

ひとコマひとコマがとても独創的で、それは紛れもなく唯一無二のタルコフスキー・ワールド。水、火、光が重要な役割を果たし、特に射し込む光の使い方が実に巧みだ。恐らく彼はオーソン・ウェルズと並ぶ天才に違いない。映画監督ならば誰しもタルコフスキーのように撮りたいと思うだろう。私が最も印象に残ったのは、塹壕をまたいだ兵士が従軍看護師の女性を両手で抱えてくちづけをする場面。なんと素晴らしいカット。きっと何かの作品でこのシーンは引用されているのではないか。

戦争で家族を失った主人公の少年はしばしば母親の夢を見るのだが、劇中何度となく映される白樺の木々は母親そして女性のメタファーのように思われる。更にはその木を突くカッコウは少年自身を表してもいるようである。母なる大地を戦により荒廃させていく愚かしい男たちとの、この対比は反戦映画でありながらも高い芸術性を感じさせるものだ。

母に対する息子の愛が謳われた本作はタルコフスキーの長編第一作であり、これは同じくロシア出身のズビャギンツェフがデビュー作「父、帰る」において、父親に向けた愛情を描いたのと、どこか呼応しあっているかのようである。

「僕の村は戦場だった」(IVAN'S CHILDHOOD) 1962年 94分 監督:アンドレイ・タルコフスキー、脚色:ウラジミール・ポゴモーロフ、ミハイル・パパワ、撮影:ワジーム・ユーソフ、音楽:V・オフチニコフ、出演:コーリヤ・ブルリヤーエフ、V・ズブコフ、E・ジャリコフ、S・クルイロフ


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【 マーロン・ブランドの軌跡 No.22 】

マーロン・ブランドの師ステラ・アドラーの学校で演技の手ほどきを受けたベニチオ・デル・トロは、型にはまらないスケールの大きさが先輩のブランドを彷彿とさせる俳優である。そのデル・トロがスター・ウォーズに出演するという話を耳にした時に、私はすぐさまスーパーマンの実父に扮したブランドのことを思い出し、そんなところも似ている、としみじみ感じたものだ。この映画の原案と脚色に、ゴッドファーザーの原作者マリオ・プーゾが参加していることは今回初めて知ったのだが、ブランドへのオファーも、もしかしたらゴッドファーザーが縁であったのかもしれない。

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赤子の頃にひとり故郷を後にし、偶然出会った夫婦の元で育てられた者が、自らの持つ奇跡的な力によって民衆を助けるというストーリー展開は、どこか旧約聖書のモーセの話とも重なり、彼の胸に輝く「S」の文字がSALVATORE(救世主)を表しているようにも感じられる。劇中クラーク・ケントの勤務するデイリー・プラネット社の編集長が、まだ名前がつけられていないヒーローに対しモーセの名前を出すシーンがあることからも、明らかに「出エジプト記」が意識されているのだろう。

ブランドが登場するのは、「戦艦バウンティ」「モリツリ」に次いでブランドとは三本目の共演となるトレヴァー・ハワードも顔を揃えた冒頭の惑星クリプトンでの場面だ。エンターテインメント作品においては物語導入部で一気に観客の心を捉る"掴み"が特に重要だと思うが、本作のそれはどうにもテンポと歯切れが悪く、またブランドやハワードらの俳優の個性も残念ながら活かされていない。

台詞を暗記することで、自然さを欠いた機械的な喋り方になってしまうのを嫌うブランドがキュー・カードと呼ばれるカンペを使用するのはよく知られた話であるが、ここでのブランドは単にその台詞を読んでいるようにしか見えず、彼の演じる必要性が全く感じられなかった。

スーパーマン役には実父を演じるブランドに雰囲気が近いということでバート・レイノルズなども候補に挙げられたそうだが、クラーク・ケントの持つ誠実さを考えれば、やはりクリストファー・リーヴが適役だろう。尤も、その後の彼自身の人生では奇跡は起こらなかったわけで、それを思うとどことなく悲しい気持ちになる。

リーヴは二枚目ながらコメディのセンスも感じさせ、恋人役マーゴット・キッダーとのやり取りはとてもほのぼのとしている。もし彼が存命ならば、ケイリー・グラントのような感じになっていたかもしれず、何とも早逝が惜しまれる。

スーパーマンが武器を使わず、地球上の法律に則って相手を裁く点は、古き良きアメリカの香りがするヒーロー映画の王道でもあり、それはまたベトナム戦争前のまだ健全さを残すアメリカへの回帰だったと言えるのかもしれない。

「スーパーマン」(SUPERMAN) 1978年 144分 監督:リチャード・ドナー、脚色:マリオ・プーゾ、デイヴィッド・ニューマン、レスリー・ニューマン、ロバート・ベントン、撮影:ジェフリー・アンスワース、音楽:ジョン・ウィリアムズ、出演:マーロン・ブランド、トレヴァー・ハワード、グレン・フォード、ジーン・ハックマン、クリストファー・リーヴ、マーゴット・キッダー

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戦争で犠牲になるのは、常に罪なき市井の人々だ。そのことを為政者は真剣に考えなければならない。やたらと好戦的な某国の大統領や、平和を謳った憲法を改正しようとする某国の首相は、ゴルフなどをする時間があるならば、共にこの映画を観るべきであろう。およそ文化的なものとは縁のなさそうな二人だが、あの大女優イングリッド・バーグマンの心にも訴えかけたロッセリーニ監督からのメッセージを、一国のリーダーとして感じとるべきだろう。

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本作でまず驚かされるのは、イタリアがドイツ軍から解放されたすぐその年に製作されたことだ。当然ながら撮影には色々と困難を極めたが、結果としてそれらの悪条件が迫真のリアリティへと繋がり、映画史に残る名作を誕生させることになった。

印象に残るシーンも数多くあり、特に子供たちの目の前で司祭が銃殺されるラストには心が震える。処刑直前に司祭が発する「死ぬのは難しくない。生きる方が難しい」という言葉は何か哲学のようでもあり、非常に奥が深い。

ゲシュタポの幹部がレジスタンス指導者に拷問を加える部屋のすぐ近くで、ドイツ軍の連中が酒を飲みゲームに興じているが、これは民衆を虐げている裏側で権力者が利権を得ているという戦争の歪んだ構造を端的に表している。この場面で私はプッチーニ作曲の「トスカ」第二幕、卑劣な警視総監スカルピアが歌姫トスカの恋人カヴァラドッシを、その苦悶の声が彼女に聞こえるよう拷問するところを思い起こした。「トスカ」は現実をありのままに描こうとするヴェリズモ・オペラのひとつにも数えられる傑作で、やはりローマが舞台でもあり、仮に脚本のフェリーニが意識したとしてもおかしくはない。

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レジスタンス指導者の恋人を演じたマリア・ミキと彼女に近づくゲシュタポ女性部員役のジョヴァンナ・ガレッティは、ベルトルッチの「ラストタンゴ・イン・パリ」にも配役されており、ロッセリーニに対するベルトルッチの敬愛の念が伺える。本作におけるリアリズムは後進のケン・ローチやポール・グリーングラスなどに脈々と受け継がれており、今後も次世代の監督たちによって新たな「無防備都市」が作られていくことだろう。

「無防備都市」(ROMA,CITTA,APERTA) 1945年 103分 監督:ロベルト・ロッセリーニ、脚本:フェデリコ・フェリーニ、撮影:ウバルト・アラータ、音楽:レンツォ・ロッセリーニ、出演:マルチェッロ・パリエーロ、アルド・ファブリッツィ、アンナ・マニャーニ、マリア・ミキ

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