Soul Cinema

『シネマは時代を映す鏡だ 今ここに その魂を感じ取れ』

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戦争で犠牲になるのは、常に罪なき市井の人々だ。そのことを為政者は真剣に考えなければならない。やたらと好戦的な某国の大統領や、平和を謳った憲法を改正しようとする某国の首相は、ゴルフなどをする時間があるならば、共にこの映画を観るべきであろう。およそ文化的なものとは縁のなさそうな二人だが、あの大女優イングリッド・バーグマンの心にも訴えかけたロッセリーニ監督からのメッセージを、一国のリーダーとして感じとるべきだろう。

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本作でまず驚かされるのは、イタリアがドイツ軍から解放されたすぐその年に製作されたことだ。当然ながら撮影には色々と困難を極めたが、結果としてそれらの悪条件が迫真のリアリティへと繋がり、映画史に残る名作を誕生させることになった。

印象に残るシーンも数多くあり、特に子供たちの目の前で司祭が銃殺されるラストには心が震える。処刑直前に司祭が発する「死ぬのは難しくない。生きる方が難しい」という言葉は何か哲学のようでもあり、非常に奥が深い。

ゲシュタポの幹部がレジスタンス指導者に拷問を加える部屋のすぐ近くで、ドイツ軍の連中が酒を飲みゲームに興じているが、これは民衆を虐げている裏側で権力者が利権を得ているという戦争の歪んだ構造を端的に表している。この場面で私はプッチーニ作曲の「トスカ」第二幕、卑劣な警視総監スカルピアが歌姫トスカの恋人カヴァラドッシを、その苦悶の声が彼女に聞こえるよう拷問するところを思い起こした。「トスカ」は現実をありのままに描こうとするヴェリズモ・オペラのひとつにも数えられる傑作で、やはりローマが舞台でもあり、仮に脚本のフェリーニが意識したとしてもおかしくはない。

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レジスタンス指導者の恋人を演じたマリア・ミキと彼女に近づくゲシュタポ女性部員役のジョヴァンナ・ガレッティは、ベルトルッチの「ラストタンゴ・イン・パリ」にも配役されており、ロッセリーニに対するベルトルッチの敬愛の念が伺える。本作におけるリアリズムは後進のケン・ローチやポール・グリーングラスなどに脈々と受け継がれており、今後も次世代の監督たちによって新たな「無防備都市」が作られていくことだろう。

「無防備都市」(ROMA,CITTA,APERTA) 1945年 103分 監督:ロベルト・ロッセリーニ、脚本:フェデリコ・フェリーニ、撮影:ウバルト・アラータ、音楽:レンツォ・ロッセリーニ、出演:マルチェッロ・パリエーロ、アルド・ファブリッツィ、アンナ・マニャーニ、マリア・ミキ

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私の場合、DVDを購入したものの開封をせずにしばらくそのままになっていることが、たまにあって、この100分に及ぶ特典ディスクの付いた「レイジング・ブル」にしても、およそ10年程前に手に入れながら、ずっと薄いセロハンをかけた状態で棚にしまわれていたものだが、世間の改元フィーバーをいささか冷ややかに見つめながらの連休後半、ようやくそのDVDを鑑賞する機会が巡ってきた。

マスカーニ作曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲が流れる中を、デ・ニーロ演じるジェイク・ラモッタがリング上でシャドーボクシングする冒頭のクレジットシーンは、その旋律とモノクロームの映像が見事に調和して大変に美しいが、この一場面が使われたDVDのジャケットも秀逸で、もしかすると「ジャケ買い」的な部分があったのかもしれない(現在発売中のソフトはジャケットが変更されてしまっている)

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"監督のスコセッシは『タクシー・ドライバー』が全てだ"などと言う映画ファンがいて、たしかにあの作品の持つ独特の世界観に比肩するものを見つけるのは難しいが、しかしながら演出、脚本、撮影、編集、美術、演技、それらを総合して考えた場合に、スコセッシの最高傑作は「レイジング・ブル」なのではないだろうか、と今回あらためて私は感じた。もっとも「ギャング・オブ・ニューヨーク」以降のスコセッシ作品を私は観ていないので、これには異論があるかもしれないが。

撮影のマイケル・チャップマンは「ゴッドファーザー」で助手を務めていたカメラマンで、「タクシー・ドライバー」も彼の手によるものだが、本作は恐らくチャップマンのキャリアにおいてもベストワンに違いない。ラモッタの拳闘場面には、たしかヒッチコック「サイコ」のシャワー室シーンのテクニックが応用されていたと記憶しているが(このレビューを書いている時点で特典メイキングは未見である)、その迫力たるやパンチが当たる音を含めて凄まじいものだ。また、ラモッタが妻ビッキーを見初めるところでの部分的なスローモーションの使用なども印象深い。

支配欲が強く、異常なまでに嫉妬深いラモッタにはパラノイア的な側面も伺えるが、貧しいイタリア系移民である彼の信じられるものが己の拳ひとつしかないとするなら、誰がラモッタを非難することなど出来ようか。

映画の最後に、ヨハネ福音書の一部(9章24節、25節)が画面に表示される。

"そこで彼らは、盲人であった人をもう一度呼んで言った、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」。"

"すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです」。"(日本聖書協会の口語訳参照)

ラモッタには人として未熟な部分があって、周囲に多大な迷惑をかけ、罪も犯したが、彼がリングで見せた不屈の闘志は紛れもない本物で、どんなにパンチを浴びせられようと絶対に倒れなかった事実もひっくるめて、ラモッタというひとりの男なのである。

映画監督になる前は司祭を志していたスコセッシが、「レイジング・ブル」の終わりに引用したヨハネ福音書の言葉を私はこう解釈したのだが、はたしてどうだろう。

これは余談ながら、ラモッタと出会った時の妻ビッキーは10代という設定なのだが、彼女を演じたキャシー・モリアーティが大人の色気に溢れていて、ティーンエイジャーに全く見えないのはご愛嬌か。

「レイジング・ブル」(RAGING BULL) 1980年 129分 監督:マーティン・スコセッシ、脚本:ポール・シュレイダー、マルディク・マーティン、撮影:マイケル・チャップマン、音楽:レス・ラザロビッツ、出演:ロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシ、キャシー・モリアーティ、フランク・ヴィンセント

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9・11から2年後のアメリカ。ベトナム戦争で受けた心の傷に苦しむ元兵士のポールにとって、9・11のショックは想像以上に大きく、それは彼が取り憑かれている「姿の見えない敵から攻撃される」というトラウマ的妄想を増長させ、祖国を守るためにLAの街中で行う単独パトロールへと駆り立てる要因にもなっていた。

20歳のラナはアメリカ出身だが、宣教師である父親の仕事上の都合によりアフリカで育てられ、ここ数年ほどはパレスチナで暮らしていた。彼女は亡くなった母親からの手紙を伯父ポールへ渡そうと祖国に戻ってきた。

「アメリカはベトナム戦争を含め、冷戦と呼ばれるもの全般に勝利し、共産主義の蔓延を阻止した」と語るポールは、独善的な正義をふりかざし、パトロールで見つけた怪しげな移民を危険人物と見なして追跡をするが、結局は事実無根で全てはポールの思いこみにすぎなかった。

彼のこの姿は、イラク戦争におけるアメリカと重なり、更にはポールという人物そのものがベトナム戦争後のアメリカを体現していると言えるのかもしれない。

マチズモを誇示するポールと対照的なのが、慈愛に満ちた眼差しのラナだ。ラナ役のミシェル・ウィリアムズの顔立ちはどことなく「パリ・テキサス」のナスターシャ・キンスキーを思わせる。ラナの「9・11で亡くなった人々の声を聞きたい。きっと報復は望んでいないはず」という言葉は、監督のヴェンダースが本作で一番伝えたかったメッセージに違いない。

少し残念でならないのは、大都市の貧困事情や帰還兵の心的外傷など、現代社会が抱える問題を取り上げた監督の姿勢は高く評価できるものの、焦点がいくらか散漫になってしまったように感じられるところだろうか。また、ポールとラナの過去の背景がわかりにくいこと、ラナの母親からの手紙があまりストーリーに活かされていないことなども、自分としては気になった。

物語の終盤で、映画のタイトルにもなったレナード・コーエンの曲が流れるが、彼のしわがれた声がその歌詞と共に心に沁みる。

"ぼくは声を上げ祈る
この豊かな国の光がいつの日か
真実を照らし出しますように"

ミシェル・ウィリアムズは、個人的に今世紀の名作のひとつだと思う「ブルーバレンタイン」(2010年)を観て以来、注目している女優だが、まだ初々しさの残る本作でもすでに大器の片鱗を伺わせる。彼女が将来メリル・ストリープに匹敵する大女優になるのはまず間違いなく、これからどんな演技を見せてくれるのか楽しみでならない。

「ランド・オブ・プレンティ」(LAND OF PLENTY) 2004年 124分 監督:ヴィム・ヴェンダース、脚本:ヴィム・ヴェンダース、マイケル・メレディス、撮影:フランツ・ラスティグ、音楽:トム&ナクト、出演:ミシェル・ウィリアムズ、ジョン・ディール、バート・ヤング、ウェンデル・ピアース

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よくよく考えてみれば、私は"文豪"と称される谷崎潤一郎の小説をひとつも読んだことがない。例えば「刺青」などを、読んでみようかと思ってみたこともあるのだが、新潮文庫の、一連の谷崎作品に共通するちょっと毒々しさを感じさせるような表紙が、それを書店のレジに持っていくのを躊躇させたのかもしれない。

したがって今回観た「鍵」に関しても、当然ながら原作との比較は出来ようもなく、あくまでも映画版をオリジナルと考えての感想になる。

冒頭、内科でインターンをしている木村(仲代達矢)が人間の老化現象についてカメラに向かって語りかける。この木村の道化にも似た白っぽい顔や人形じみた表情にまず何か妙な感じを受ける。いや、木村だけではない。木村の勤務する病院に通う古美術鑑定家の剣持(中村鴈治郎)も、妻の郁子(京マチ子)も、娘の敏子(叶順子)も一様に顔がどこか妙だ。

映画が進行するうちにその違和感の理由がわかってくる。四人とも心の醜悪さが顔に表れているのだ。郁子の細く整えられた眉とやや吊り上がった目は剣持が大事にする仏像を思わせるが、足の不自由な夫を嫌悪し、家に近づいてきた不具の野良猫を外に放り出す心根は仏様とは程遠い。

郁子の細い眉と対照的なのが、敏子の自然なままの眉だ。この二人の眉の形には、自己主張はせず表向きは夫に従順たらんとする保守的な母親に対して、相手に媚びず自分自身を貫こうとする娘の、それぞれの女としての生き方の違い、さらには時代の違いが表現されているようでもある。

この作品は公開時「猥褻か芸術か」の論争の的となり、結果として成人映画扱いになったそうだが、現在の観点からすればその描写はTVドラマ並のものに過ぎない。しかしながら、寝たきりになった夫の前で着物を脱ぐシーンでの京マチ子の画面から溢れ出るような濃厚なエロティシズムは、昨今の映画のようにあからさまに見せるだけが全てではないことを如実に物語っている。

細かくカットをつなぎ、ひとつひとつの構図やカメラアングルに相当なこだわりが伺える本作はまさしく日本映画の傑作で、ゴールデングローブ賞外国語映画賞にカンヌ映画祭審査員賞と、海外でも高い評価を受けているのも至極当然であろう。これまで数えるほどの邦画にしか触れておらず、監督としての「市川崑」を過小評価していた部分のある私は目からウロコが落ちる思いがした。

「鍵」(1959年) 監督:市川崑、脚色:和田夏十、長谷部慶次、市川崑、撮影:宮川一夫、音楽:芥川也寸志、出演:京マチ子、叶順子、仲代達矢、中村鴈治郎、北林谷栄

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